ABOUT

沿革

名古屋大学外科の系譜

  • 上段:生~没年
  • 下段:在任期間
    (一等教諭・教授任期)
  • ヨングハンス
    ? - ?
    1873 – 1876
  • ローレツ
    1846 – 1884
    1876 – 1880
  • 後藤 新平
    1857 – 1929
    1877 – 1883
  • 熊谷 幸之輔
    1857 – 1923
    1881 – 1916

第一外科系

  • 熊谷 幸之輔
    1857 – 1923
    1881 – 1916
  • 齋藤 眞
    1889 – 1950
    1919 – 1920
  • 田中 義雄
    1888 – ?
    1920 – 1924
  • 齋藤 眞
    1889 – 1950
    1922 – 1950
  • 戸田 博
    1906 – 1953
    1950 – 1953
  • 橋本 義雄
    1904 – 1986
    1953 – 1968
  • 弥政 洋太郎
    1920 – 1996
    1973 – 1983
  • 塩野谷 恵彦
    1931 – 2020
    1984 – 1991
  • 二村 雄次
    1943 –
    1991 – 2007
  • 梛野 正人
    1954 –
    2007 – 2020
  • 江畑 智希
    1966 –
    2020 –

第二外科系

  • 花房 道純
    1860 – 1895
    1886 – 1895
  • 小川 三之助
    1863 – 1916
    1895 – 1915
  • 杉 寛一郎
    1875 – 1924
    1917 – 1924
  • 西尾 重
    1891 – 1925
    1925 – 1925
  • 桐原 眞一
    1889 – 1949
    1926 – 1949
  • 今永 一
    1902 – 1997
    1949 – 1965
  • 星川 信
    1908 – 1988
    1966 – 1971
  • 近藤 達平
    1921 – 2001
    1972 – 1985
  • 高木 弘
    1934 –
    1985 – 1998
  • 中尾 昭公
    1948 –
    1999 – 2011
  • 小寺 泰弘
    1959 –
    2011 – 2024

名古屋大学外科の歴史において、第一外科と第二外科の分離と初代教授については、諸説が存在する。明治14年、初めて「外科」が設けられ、熊谷幸之輔が外科医長・一等教諭(現在の教授)に就任し、明治19年には花房道純が二人目の外科一等教諭として着任した。以前に第二外科史を研究した近藤達平は退官記念講演においてこの花房道純を第二外科の初代教授とし、第二外科の始まりを明治26年と主張している。一方で、花房が就任した時期に独立した教室が二つ存在したという明確な史料は残っておらず、当時の状況から推測すると両一等教諭の関係性は第一・第二外科教室の長というよりむしろ第一・第二外科科長といった主従関係に近かったと考えられる。同様に、花房の後任である小川三之助の時代においても、関係性は同様であり、熊谷は病院長として多忙であり、両者の業務は分業化されたと考えられる。
第一外科と第二外科の分離は、おそらく大正5年から大正8年の間に始まったものと考えられる。具体的に、大正5年に熊谷幸之輔が校長職を退任し、大正6年に公立学校職員制によって一等教諭から教授の称号への変更が行われ、杉寛一郎教授が着任し、翌大正8年に斎藤眞教授が着任したことが分離の始まりと考えられる。教室分離の過渡期の状況は、医学部卒業アルバムで初めて「二つめの外科教室」として独立した頁で紹介されたのは杉寛一郎の時代であることや、桐原眞一が教授に就任した時期には「既に外科は二つに分かれていたが、病棟業務(回診,当直など)は共同で行い、医局会計,抄読会,医局歓送迎会等も合同で運営された」と当時の同門会誌に記載されていることなどからもうかがい知ることができる。教室が完全に分離したのは、昭和14年の名古屋帝国大学設立時で、この年に附属医院(病院)が改築され、両外科の独立した教室と手術室の運用が開始され、斉藤外科が「第一外科」、桐原外科が「第二外科」として公式な文書に登場するようになった。

第一外科系

斎藤眞
(大正八年~大正九年、大正十三年~昭和二十五年。大正九年~大正十三年はドイツ、フランス、オーストリアなど欧州諸国に留学しており、その間は田中義雄が教授を務めた)

”日本脳神経外科の父“と言われ多くの偉大な業績を残した。

戸田博
(教授在任:昭和二十五年~昭和二十八年)

心臓・血管外科を専門とし、日本初の人工心肺装置を考案した。昭和二十八年の日本外科学会総会では、独自の人工心肺装置による約三時間にもおよぶ完全体外循環の成功例が報告されたが、戸田は学会の寸前、任期僅か四年で脳出血により急逝した。

橋本義雄
(教授在任:昭和二十八年~昭和四十三年)

橋本は愛知医科大学を卒業後、斎藤外科に入局し、台北帝国大学を経て昭和二十四年からは徳島大学外科教授を務めていたが、戸田の急逝を受けて急遽、名古屋大学に転任となった。橋本も血管外科を専門とし、特に血栓・塞栓症の研究を精力的に行った。昭和三十七年には、斎藤眞以来第一外科の伝統であった血管撮影法研究成果の集大成として、『血管撮影法』を上梓している。このように戸田・橋本両教授時代の第一外科学教室は、教授の専門分野を反映して心臓外科や血管外科の診療・研究が主流であった。昭和三十六年頃、悪性腫瘍に対する制癌剤の局所灌流療法をもって腫瘍外科の研究が始まったようである。いずれにしろ、第一外科教室に於いては腫瘍外科(消化器外科)研究室の歴史は浅く、第二外科学教室となるべく研究分野が重複しないようにという配慮があった。橋本教授は昭和四十二年に第六十七回日本外科学会総会を主催して翌年退官したが、昭和四十二年、四十三年頃は学園紛争の極期にあり、入局、大学院、博士号の三大ボイコット宣言がされて教官選考内規の大改定も行われたため、後任の弥政洋太郎教授が選出されたのは昭和四十八年六月になってからであった。

弥政洋太郎
(昭和48年~昭和58年)

弥政は教授就任後、第一外科教室の研究体制を一新し、心臓外科に教授、助教授、講師、助手の教官が集中していたものの、血管外科、小児外科、腫瘍外科、高気圧治療の各研究室には各二名の教官を配備した。腫瘍研究室の初代チーフは服部龍夫(昭和三十年卒)、もう一人の助手は三浦馥(昭和三十五年卒)であった。腫瘍研究室の中では食道、胃、大腸、上皮小体を中心とした内分泌疾患などのグループに分かれて診療・研究が行われ、食道は高勝義(昭和四十二年卒)、胃は石槫秀勝(昭和三十九年卒)、大腸は小林洋一郎(昭和四十二年卒)、内分泌は山口晃弘(昭和四十二年卒)らが中心となっていた。昭和四十九年九月、後に第一外科学講座教授となる二村雄次(昭和四十四年卒)が癌研究会附属病院での外科修練を終え第一外科に入局した。二村は腫瘍研究室に所属して新たに膵胆道疾患の臨床、研究を開始した。そして経皮経肝胆道ドレナージ、それを応用した経皮経肝胆道鏡検査・切石術、内視鏡的乳頭切開術など膵胆道疾患に対する新しい内視鏡的診断治療法を積極的に導入する一方、昭和五十年に膵癌に対する膵全摘術に成功して以来、広範囲リンパ節、神経叢郭清を伴う膵全摘術を積極的に行ったが長期治療成績の改善にはつながらなかった。昭和五十二年四月には肝門部領域胆管癌に対する第一例目の手術(肝門部胆管切除)を行い、胆道癌の分野にも果敢に手術療法の開拓を行った。かかる活躍により昭和五十四年助手に抜擢され、一年後の昭和五十五年には、それまで研究室チーフであった服部の名古屋第一赤十字病院赴任に伴い講師に昇格、名実ともに腫瘍研究室のチーフとなった。以後、平成十九年に退職するまでの二十七年間、強いリーダーシップの下、腫瘍外科を牽引した。全くゼロから始めた膵胆道癌の外科、特に肝門部領域胆管癌や胆嚢癌の外科治療を在任中に世界に冠たる地位にまで押し上げた功績は極めて大きく、腫瘍外科の歴史は当に二村が発展させたと言っても過言ではない。

塩野谷惠彦
(教授在任:昭和五十九年~平成二年)

弥政教授時代の昭和五十年に高気圧治療グループが附属病院高気圧治療部として独立、昭和五十八年には胸部外科学講座新設に伴い第一外科の本流であった心臓外科グループがそちらに移動となった。したがって、塩野谷教授時代の第一外科は血管外科、腫瘍外科、小児外科の三研究室から構成されていた。塩野谷は①年功序列で古参医員の中から選ばれていた教官を関連病院で実績を上げた若手から登用することにより大学と関連病院との関係をより強固にする、②博士論文は英語でなければ認めないなど多くの改革を行いつつ、第一外科教室の国際化に向けて陣頭指揮を執って教室員を叱咤激励した。腫瘍研究室では膵胆道癌手術に血管外科の手技を取り入れ、広範囲肝切除に伴う門脈の合併切除再建、肝膵十二指腸同時切除(HPD)など欧米には見られない胆道癌に対する超拡大手術の開拓を積極的に行ったが、現在と比べれば当時の手術成績は未だ不良で黎明期といえる時代であった。当時、二村を支えて腫瘍研究室を切り盛りした教官で早川直和(昭和四十六年卒)は腫瘍研究室の基本手術手技として『前立ちからみた消化器外科手術』を上梓した。また、神谷順一(昭和五十一年卒)は形態学をとことん追求し、膵胆道癌の術前診断法に加えて切除標本の整理法などに関し新境地を開き、『消化器切除標本の取り扱い方』を上梓した。彼の考案した標本整理法は芸術的でさえあり、現在に至るまで脈々と腫瘍外科教室の中で引き継がれている。この整理法は数多くの臨床病理学的研究の基礎となっており、腫瘍外科教室の宝と言えるものである。当時の研究室では腹部超音波検査、造影CT検査、経皮経肝胆道ドレナージを用いた直接胆道造影や胆道鏡検査、腹部血管造影や経皮経肝門脈造影などの術前画像診断に力を注いだ。癌の詳細な進展度診断と肝の三次元的外科解剖の把握に基づいた適切な根治切除術式を立案し、それまで非切除とされてきたような局所進行癌でも根治切除が可能で長期生存しうることを示しながら手術成績の向上に総力を挙げ、名古屋式手術法の国際展開を図った。当時、腫瘍外科の発展に貢献した教官には前述の早川、神谷の他、松本隆利(昭和四十六年卒)、長谷川洋(昭和五十年卒)、後に北海道大学第二外科教授となる近藤哲(五十三年卒)、安井章裕(昭和五十三年卒)、二村の後任となる梛野正人(昭和五十四年卒)、宮地正彦(昭和五十五年卒)、金井道夫(昭和五十五年卒)、上坂克彦(昭和五十七年卒)、後に愛知医科大学消化器外科教授となる佐野力(昭和六十一年卒)らがいたが、皆三十歳台で活気にあふれていた。塩野谷は教室の改革、運営が円滑に行われるようになったのを見届け、一身上の都合により任期を三年残して突然辞任した。

二村雄次
(教授在任:平成二年~平成十九年)

二村教授時代、教室における胆道癌の手術成績は世界から一目置かれるようになり、塩野谷の提唱した外科の国際化が実現していった。平成十二年には小児外科が新講座として独立した。一方では、大学院重点化に伴い腫瘍外科研究室および血管外科研究室はそれぞれ器官調節外科と脈管外科という独立した講座に再編成されたので、“第一外科”という名の講座・教室はこの時点で消滅したことになる。脈管外科は平成十四年に古森公浩を初代教授として迎えて血管外科と改名し、第一外科ユニットの教育、診療、研究体制が現在の状態に整った。平成十八年には器官調節外科という意味不明な名称が腫瘍外科に改められた。二村は平成十七年、『日本の外科文化の発展:ボーダーレス時代での検証』というテーマで第百五回日本外科学会定期学術集会を主催した後、平成十九年に退職した。

梛野正人
(教授在任:平成十九年~令和二年)

梛野も胆道癌に対する拡大手術を更に押し進め、肝切除+肝動脈・門脈の同時切除再建、肝十二指腸間膜一括切除(HLPD)など他の施設ではほとんど行われていなかった超高難度手術を多数行った。肝門部領域胆管癌の切除数は、二村が昭和五十二年に第一例目を行ってから四十年以上の歳月をかけ令和元年に千例を超えるに至った。切除数ばかりでなく施行している手術の難度、手術成績は世界の他の施設を圧倒している。その優れた外科治療成績は、Annals of Surgery、British Journal of Surgery、Surgeryなど欧米の一流誌に多数報告されている。梛野も平成二十七年、『メスの限界を求めて』というテーマの下で第百十五回日本外科学会定期学術集会を主催した。学術集会終了後、自ら執刀した多くの超高難度手術例をまとめ『メスの限界に挑戦した症例』として上梓した。

江畑智希
(教授在任:令和二年~)

二村教授が積極的な治療戦略で胆道癌が切除可能であることを示し、梛野教授が切除術式を発展させ、定型化手技によって胆道癌手術の安全性を一定の水準へと押し上げた。さらに江畑は包括的治療による生存確率の最大化を目指し令和二年から当教室の指揮をとっている。大学病院以外の医療資源の限られた病院でも、高リスクな胆道癌肝切除を受けられるよう、技術と知識の伝承・共有にも取り組んでいる。当教室で蓄積した技術の「見える化」や術後経過の「予測」に関する研究を行っており、さらに、国内外の臨床試験や共同研究にも積極的に参加し、特に東(南)アジア地域との連携を強化している。

第二外科系

桐原眞一
(在任期間:大正一五年~昭和二四年)

第六高等学校、東京帝国大学医科大学卒業後,東京帝国大学医科大学近藤外科へ入局した.大正十五年愛知医科大学の講師として名古屋へ招かれ,同年教授へ就任した.専門は,輸血,胃鏡,神経移植などで,特に胃鏡に関する業績は有名である。昭和七年エルスナー式硬性胃鏡で初めて胃癌を診断し、以後、国産の軟性胃鏡の開発や胃鏡での動画撮影などに取り組み、その成果は日本外科学会をはじめとする多くの学会で報告された。昭和二〇年に第四五回日本外科学会総会を担当するが太平洋戦争の戦況悪化のため紙上発表のみとなり、翌昭和二一年に東京で開催された第四六回日本外科学会で会長を務めた。戦前・戦後の困難な時代においても教室運営を維持し、第二外科の礎を築くと共に学問的にも多くの業績を残した。

今永 一
(在任期間:昭和二四年~昭和四〇年)

九州帝国大学医学部卒業後,九州帝国大学助教授,熊本医科大学教授を歴任し,昭和二四年名古屋大学外科学第二講座教授に就任した。専門分野は,門脈圧亢進症や膵臓外科などで,特に、門脈圧亢進症に対して門脈下大静脈シャント術を多数施行する中で肝の血液循環動態に着目した「今永分類」や膵頭十二指腸切除術の再建法である「今永法」は有名である。その他にも悪性腫瘍と化学療法、低蛋白血症と肝臓、外科とビタミン、副腎外科など多方面に目を向け、任期中には肝臓外科、膵臓外科、癌外科、副腎外科などの研究室を発足して現在の第二外科の原型を築いた。また、昭和一五年に第四一回日本外科学会総会において宿題報告として「肝臓機能と外科的疾患」について報告し、昭和三九年には第六四回日本外科学会総会(名古屋)会長を担当した。会長講演では「我が国における門脈圧亢進症の特性」について報告している。

星川 信
(在任期間:昭和四一年~昭和四六年)

昭和三年第八高等学校卒業、昭和七年名古屋医科大学卒業後、桐原外科へ入局した。紀北病院、静岡陸軍病院、長野赤十字病院等を経て、昭和二五年助教授に就任。助教授時代に第五二回日本外科学会総会の宿題報告として「外科的疾患におけるビタミン代謝」について報告した。昭和四一年教授就任。その後まもなく大学紛争がおこり、在任五年間はこの苦難な時代の中で第二外科の臨床・研究を発展させた。消化器疾患の病態生理や物質代謝を専門とする一方で、癌研究室(近藤達平)、肝臓研究室(山本貞博)、内分泌研究室(余語弘)、心臓研究室(阿久根淳)、肺研究室(国島和夫)、脳神経研究室(永井肇)を統括し、各方面の外科において多くの成果をあげた。

近藤達平
(在任期間:昭和四七年~昭和六〇年)

昭和二一年名古屋帝国大学医学部卒業後、当時の桐原外科へ入局した。共愛病院を経て、今永外科へ帰局後、昭和三二年から三年間米国Roswell Park癌研究所に留学した。帰国後は消化器癌の外科治療に情熱を注ぎ,昭和四二年制癌剤適応研究会の設立に尽力した。昭和四七年教授に就任。専門は胃外科、消化管癌の化学療法などで、癌のオーダーメイド治療の重要性に早くから着眼し,SDI法などの抗癌剤感受性試験法の開発、術後補助化学療法の開発、腫瘍ウイルスの研究など多くの成果をあげた。そのほかにも、胃全摘後の再建法として「6の時吻合」や人工膵臓の開発等、幾多の優れた業績を残した。昭和五五年第二一回日本消化器外科学会を主催。昭和五七年病院長に就任した。また、名古屋大学外科史の編纂にも尽力され、退官記念講演では「名古屋大学外科の濫觴及び第二外科史概説」として講演を行った。

高木 弘
(在任期間:昭和六〇年~平成一〇年)

昭和三四年名古屋大学医学部卒業後、昭和四一年から四年間米国に臨床で留学し、帰国後は愛知県がんセンターにおいて癌の拡大手術、臓器移植、上皮小体の外科を中心に取り組んだ。昭和六〇年教授に就任し、肝臓外科(門亢症、肝胆膵癌)、癌外科(食道、胃、大腸癌など)、内分泌外科(乳腺、甲状腺、腎性上皮小体、副腎腫瘍)、移植外科(人工臓器を含む)を統括した。専門分野は多岐にわたるが、特に移植外科の発展に尽力し、研究分野では異種移植研究会を立ち上げ、第五回国際異種移植学会を名古屋で開催した。臨床においても腎臓移植、腎性上皮小体機能亢進症手術を積極的に行い、当地域における移植医療の発展に貢献した。Seminars in Surgical OncologyのAssociate Editorを務め教室の英文論文増加にも貢献した。平成七年には第九五回日本外科学会学術集会の会長を務め、会長講演では「異種移植臨床への展望」について講演を行った。

中尾昭公
(在任期間:平成十一年~平成二十三年)

昭和四八年名古屋大学医学部卒業後,尾西市民病院,岐阜県立多治見病院を経て,名古屋大学医学部第二外科肝臓研究室帰局。平成四年助教授、平成十一年教授に就任した。専門は肝胆膵外科で,特に膵癌治療において多くの業績を残した。膵癌手術においては抗血栓性門脈バイパス用カテーテルを開発し,門脈合併切除を併施した拡大膵頭十二指腸切除術(Isolated PD)を安全な術式として確立した。また,癌治療の新たな可能性として腫瘍溶解性ウイルスHF10を用いた難治癌に対する治療法の開発にも力を注ぎ多くの業績を残した。平成二十二年には第一一〇回日本外科学会定期学術集会の会頭を務め,会頭講演では膵癌治療や名古屋大学外科史について講演を行った。退官時には第二外科で初めて系統的に歴史を綴った「名古屋大学医学部第二外科一四〇年史」を編纂した。

小寺泰弘
(在任期間:平成二十三年~令和六年)

昭和六〇年名古屋大学医学部卒業後,小牧市民病院を経て,名古屋大学医学部第二外科癌研究室に帰局、癌の悪性度、制癌剤感受性などについて研究。平成六年より愛知県がんセンター消化器外科医長として、胃外科を中心に研鑽を積み、腹腔内洗浄液からの微小癌細胞の検出に取り組むほか、JCOG胃外科グループで多くの臨床試験に関わる。平成十四年名古屋大学病態制御外科(現消化器外科)に助手として戻り、講師、准教授を経て平成二十三年より消化器外科教授。日本胃癌学会でガイドライン作成に関わり、理事長となった。平成三十一年七月より学会誌Gastric Cancerのeditor-in-chiefを務める。日本外科学会では理事、専門医制度委員長として新専門医制度の確立に関わる。平成三十一年より名古屋大学医学部附属病院長。消化器外科の臓器別再編、乳腺・内分泌外科の設立に注力した。

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